8月2日付で、「
Trying times for Bo」という記事がありましたので、簡約にて紹介したいと思います。
Boとは、今話題の、薄熙来のことです。
1966年7月27日は、中国共産党のための重要な一日でした。しかし、その日の重要性に気付いた人はほとんどいませんでした。
ハーバードの歴史家、 Roderick MacFarquhar は、その朝、劉少奇は、共産党出版物に肯定的な意見を出しただろうと指摘します。
劉の発表は、非常に悪い内容でした。
当時、劉少奇は、中国の首相であり、共産党のナンバー2でした。さらに重要なことには、彼は5年前に、毛沢東の後継者と目されていたことでしょう。劉少奇は、政権の中枢にあり、それは自然な選択でした。劉少奇と毛沢東は、1921年に結成された共産党に、ともに参加し、ともに長征に苦しみ、内戦で蒋介石を倒し、1949年に革命をもたらしたのです。
長征(ちょうせい)は、国民党軍に敗れた紅軍(中国共産党)が、中華ソビエト共和国の中心地であった江西省瑞金を放棄し、1934年から1936年にかけて国民党軍と交戦しながら、1万2500kmを徒歩で続けた移動をいう[1]。「西遷」(せいせん)、「大西遷」ともいう。(Wikipediaより)
しかし、より最近になって彼らの関係は緊張していました。
劉少奇は、大躍進によってもたらされた死と破壊を見て、毛沢東とともに落ちていったのです。
大躍進政策(だいやくしんせいさく、繁体字:大躍進、簡体字:大跃进、拼音: dàyuèjìn 、英: Great Leap Forward、1958年 - 1960年)は、中華人民共和国が施行した農業・工業の大増産政策である。毛沢東は数年間で経済的にアメリカ合衆国・イギリスを追い越すことを夢見て実施した。結果は推計2000万人から5000万人[1]の餓死者を出す大失敗に終わり、毛沢東は国家主席の座を追われた。(Wikipediaより)
劉少奇は、中国経済を正常に戻そうとしました。毛沢東は、その地位を取り戻そうと、文化大革命を準備していましたが、それは劉少奇の最後、没落を意味していました。
7月28日以降、毛沢東の陰謀は、徐々に敵対的になっていきました。1966年8月の党内のムードは不吉なものでした。劉少奇の活動報告書は、毛沢東の怒りによって中断されました。その直後、劉少奇にたいする、林彪将軍の悪質な非難が現れます(毛沢東の意志によるものと言われています)。林彪は、劉少奇に対する23の告発をたやすくやってのけました。その中のいくつかは、日付をごまかして、1940年代の「日和見的行い」としました。
劉少奇は、降格され、「共産党最大の資本主義者」とレッテルを張られたのです。
1年後、劉は逮捕され、1968年に正式に追放される前には、すべての共産党の記事から、劉少奇に関する事柄が削除されました。
第九回党大会翌年、彼はさらに、 「裏切り者、帝国主義者、現代修正主義者、敵のエージェント」などと非難されました。
紅軍による虐待と、糖尿病や肺炎の薬がもらえないため、劉少奇はその後死亡しました。
中国の大衆にとって、予期しない、壮大な秋でした。
プロパガンダによって、建国の父が、今では悪役になっていました。一般の中国人は混乱しましたが、党の幹部には、何が起こったかは明らかでした。
純粋に、法的な意味で、劉に対する訴訟は存在しませんでした。
劉少奇への粛清は、毛沢東が1960年代初頭に、その権力が弱体化したこと、そしてその権力闘争の必然的な結果でした。
政治はもちろん、残忍なことができますが、一党独裁状態において、成功と失敗は、しばしば明白です。権力闘争に負けるとは、田舎に引きこもり、回顧録を書くという意味ではありません。それはしばしば忘却を意味しています。
必然的に、劉少奇の失脚と、最近の薄熙来の追放とが比較されます。
7月25日、薄熙来は、正式に、公的資金横領と権力の乱用、収賄("非常に大きな額")で起訴されました。
近年の、汚職役人の投獄のなかに、このようなケースは、ほとんどありません。
この事例が重要である点は、薄熙来の父親が、1925年に共産党に入党した「八仙」の一人であり、党の中枢にいた人物の息子であるという、その地位の高さにあります。
薄熙来を忘却のかなたに追いやることは、劉少奇以来の、もっとも敏感な共産党の粛清になります。
確かに、薄熙来が警察に拘束されるまで、多くのひとは、「赤い皇族」という彼のバックグラウンドからみて、彼が転げ落ちることは考えられませんでした。
薄熙来は死刑にできるのか?
これが見方の中心です。
その答えは、彼の妻と、彼の相談役だった王力鈞への判決が参考になるでしょう。彼ら二人は、死刑判決ではありませんでした。
約1年前、薄熙来の妻、谷開来は、イギリス人ビジネスマンのニール・ヘイウッドし殺害の容疑で有罪となりました。彼女は、猶予付き死刑執行を言い渡され、現在は不祥事を起こした党幹部を換金する特殊な刑務所に入れられています。
9月には、王力鈞も刑を言い渡されましたが、逃亡・収賄・法律を利己的目的で曲げたことにより、15年の懲役刑となりました。
前の重慶警察署長も、彼の犯罪について、死刑を言い渡されましたが、彼の元上司に対して有罪を示す証拠を提供することで、より寛大な判決になりました。
薄熙来自身の判決は大きく間近に迫っています。
薄熙来はどのように粛清されたのですか?
劉少奇と同じように、薄熙来の転落は、高度に洗練された事件として証明されています。
昨年の全国人民代表大会で、彼は最後の公的存在を作り出していました。それにともないさまざまな憶測が飛び交い、王が成都の米国領事館に逃げ込んだ後、常任理事会入りの彼のチャンスはなくなりました。
王力鈞はその後逮捕され、薄熙来の行動を調べるために、北京に連行されました。
これら一連の出来事は、アナリストに、冷遇のサインと見られています。
たとえば、薄熙来は、政治局のテレビ会議に参加していない、25人中唯一のメンバーであったと指摘されています。これは、薄熙来にとって悪い前兆でした。
首相時代に、温家宝が「文化大革命の誤り」とした、毛沢東主義キャンペーンの「赤い歌を歌う」を薄熙来が掘り返していたからです。
その後まもなく、薄熙来は、重慶市の党書記のポストから外され、4月9日、組織部門と中央懲戒委員会の両方から自宅を訪問され、汚職容疑で監禁されました。
彼のキャリアの最後は、人民日報によって確認されました。
「薄熙来の行為は、党の規則に違反し、ひどく党と国のイメージを傷つけた。法律上、特権を与えられている市民は存在せず、党は法的な特権を持つ者を許していない。」
中国語では、それが政治的忘却として読まれるのです。
過去15か月間、薄熙来は拘留されています。彼の裁判は、3つの理由で遅れているのです。
行き詰まりの明白な根拠は、政治的なカレンダーそのものです。
この間、中国の指導体制が、習近平に11月に代わり、3月には李克強が首相に就任するという、2つの移行期間がありました。
薄熙来の裁判は政治的な爆発物であり、新しいリーダーたちが、自らの権力基盤が堅固になるまで遅延させたとされます。
第2の理由は薄熙来自身によるものです。
薄熙来は、ハンガーストライキを行っていると噂され、協力的ではないといわれています。
長期間の拘留は、法廷で、薄熙来をすり減らし、より深い悔恨を与える戦略かもしれません。
第3の理由は、彼の判決が、党内の派閥争いを引き起こすかもしれない、というものです。
理論的には、死刑判決の可能性は残されています。
薄熙来の敵にとって、刑務所に収監されるより、確実な復讐といえるでしょう。
それでも、それは残忍で、裏目に出る可能性もあります。
死刑判決によって、怒るグループが党内部にはいるからです。彼らと薄熙来の関係は、家族と血統の意識によっています。
このような環境による、もっとも妥当な結果は、終身刑です。薄熙来は、政治的脅威を失った高齢になれば解放されることもあるでしょう。
なぜ薄熙来には議論の余地があるのか?
彼の支持者は、彼のカリスマ性と大衆性を指摘します。市長として、彼が実行したことは、大きな影響を与えました。最近では、薄熙来は、世界地図上に重慶を置き、急速な経済発展を推進していました。
彼の政策のいくつかは、国内で人気を証明しました。特に、不平等問題の是正のように見える政策は。
重慶は暗黒街のボスをなくし、薄熙来は賞賛を浴び、彼は全国的な有名人になったのです。
その一方で、薄熙来の敵は、彼を危険で病的な自己中心的な人物といいます。彼らは、徐明との汚職取引を指摘し、薄熙来が、文革時代とその騒乱の暗い記憶に戻す、左翼プロパガンダを勇気づけたことを強調します。
市場改革派は、薄熙来が好む、国家主導の資本主義に意義を唱えました。そして、毛沢東時代の3人組の見せしめ裁判と薄熙来への弾圧を比較しても、薄熙来が法律を馬鹿にして軽視していることを弁護士は嫌っていました。
薄熙来の根本的な問題は、彼が中国をリードするように運命づけられていたと彼が信じていることでした。彼の失脚の種は、2002年に開催された、第16回全人代において、薄熙来と習近平が政治局のトップの座を争ったときにさかのぼることができます。習近平が勝利し、2007年には常任委員会に昇格しました。一方、薄熙来は、重慶を指導するために中央から退場したのです。
しかし、もし薄熙来のキャリアを見ようとしていたなら、それは機能していませんでした。薄熙来は、敗北を認めることを拒否し、自らのキャリアアップのために、自らの地位を利用しました。彼は、再度常任委員会への昇格を要求し、ライバル習近平のようになるかのように見えました。
王力鈞の証言から、薄熙来は、南西部の軍司令官に、彼がクーデターを計画していたという乱暴な推測を引き起こすようなことを話していた、といううわさも浮上してきています。
薄熙来の権力闘争は報われませんでした。
習近平の勝利が不動のものとなれば、何年もの孤独な思索の時が待ち受けているかもしれません。元指導者の江沢民は、習近平に彼のサポートを送りました。江沢民は、キッシンジャーとの会談で、「中国のように大きな国では、強くて能力の高いリーダーが求められます。習近平は大変優秀で、才能のある国家指導者です」と。
この発言は、習近平が正しい選択であり、共産党の習近平体制を最終的に確認したことを示唆しています。
告発への反応
香港のサウスチャイナ·モーニング·ポストは、「国家最大のスキャンダル」として、薄熙来が、わいろとして2000万元を受け取ったことで告発されたと書いています。犯罪事件簿ではまた、莫大な金額が記載されていますが、それらは中国の汚職では、まだマイナーなようです。
それにもかかわらず、北京を代表する弁護士は、告発の見通しは暗い、と語っています。「申し立てを見ると、薄熙来は執行猶予付き死刑判決、または終身刑に直面しているようです。法的には、巨額の賄賂は死刑とすることがきますが」。弁護士は「このような政治的なケースでは法律ではなく、当局によって支配されています」と付け加えました。
ウォールストリート·ジャーナルの中国語版のレポートのときは、検閲官はすぐにコメントを削除しました。
同時に、政府のゾンビアカウントは、「薄熙来の起訴は、党による腐敗防止努力の証拠である」かのような、論を持ち出し、明らかにこれに似た感情のメッセージを探しだしていました。
これにもかかわらず、米国の新聞は、薄熙来が犯罪者か殉教者か、犠牲者であるかを熟考している、無修正の議論の多くが広まる前に削除された、と記述しました。
よく知られた法学者、徐新は、weiboにおいて、薄熙来事件は、中国の法体系の勝利ではなく、党によって評決はほぼ決まっている、と書きました。
法の支配(またはその欠如)もweibo上の共通の話題でした。
たとえばあるブロガーは、構成で公平な法律と手続きの正当性なくして、中国に、本当の安定と調和は存在しない、と意見を述べています。
もう一人は、薄熙来の非公開裁判と、公開された英国王チャールズ1世とを比較して、薄熙来の裁判はテレビ放映されないだろうし、一見、疑惑の犯罪が行われた場所とは関係を持たない選択された場所、山東で開催されるのだと書いていました。
中国の政治は、広くネット上で議論されいます。
「彼は権力闘争の敗者です、汚職で解雇された役人は一人もいない」と投稿されていたりします。
カリスマ、薄熙来は、党の結束の前に個人的な野心を置いたのです。それが彼を危険にさらし、最終的には彼の破滅を証明することになるでしょう。